感性をひらく旅ログ

異国の音に心を開く:耳から始まる感性の旅路

Tags: 異文化体験, 五感, 聴覚, 感性の変化, 内省

異国の音、最初の戸惑い

慣れない海外での生活が始まった頃、最も刺激的に感じたことの一つは、周囲を取り巻く「音」でした。日本で慣れ親しんだ静けさとは異なる、多様で時には激しい音の洪水に、私の五感は常に研ぎ澄まされているような感覚でした。

朝早くから響く人々の話し声、車のクラクションの頻繁な鳴り響き、市場の喧騒、街角から流れる異国の音楽、そして予測できない鳥たちの鳴き声。それらの音は、最初は単なる騒音として私の耳に届きました。神経が休まる暇もなく、夜は耳栓が手放せないほどでした。日本の住宅街の静けさや、控えめな生活音が心地よかった私にとって、この「音の風景」は大きなストレスでもあったのです。

私は、なぜこれほどまでに音が気になるのか、自分自身の内側を探ってみました。おそらくそれは、言葉が通じにくい環境で、耳から入る情報がより重要になるからかもしれません。しかし、同時に、その音自体が持つ文化的な意味合いを理解できないことへの戸惑いもあったように思います。クラクション一つをとっても、日本では「危険」や「怒り」を示すことが多いですが、ここでは「挨拶」や「注意喚起」といった多様な意味合いを持つことを、まだ知らなかったからです。

音の中に息づく文化の脈動

しかし、日々を重ねるごとに、私の音に対する認識は少しずつ変化していきました。最初に感じた「騒音」という感覚が薄れ、代わりにそれぞれの音が持つ意味や、その音の連なりが織りなす「リズム」のようなものを感じ始めるようになりました。

例えば、市場の活気あるざわめきは、その土地の人々の暮らしの営みそのものでした。商人の呼び声、客とのやり取り、品物を置く音、それらすべてが生命力に満ち溢れ、私にとって心地よい活気の象徴へと変わっていったのです。夜の街を歩くときには、遠くから聞こえる音楽や人々の談笑が、安心感や一体感を醸し出すものとして耳に届くようになりました。

最も印象深かったのは、ある日、窓から聞こえてくる子供たちの笑い声と、それに混じる親たちの優しい声を聞いたときのことです。それは日本語ではありませんでしたが、その声のトーンや抑揚から、純粋な喜びや温かさが伝わってきました。私はその瞬間、言葉を超えて「音」が感情を伝える媒体となり得ることを、深く理解したような気がしました。

これらの体験を通して、私は音が単なる物理的な現象ではなく、その文化や人々の感情、そして生活そのものを映し出す鏡であることに気づかされました。それぞれの音が、その土地の歴史や習慣と深く結びついているのだと知るにつれて、耳に届くものが「情報」から「物語」へと変わっていったのです。

聴覚がひらく新たな感性

異文化の音に心を開いていく過程は、私自身の感性がひらかれていく旅でもありました。最初は「不快」と感じた音が「活気」や「安心」に変わり、次第にその音の中に美しさや深みを見出せるようになりました。それは、聴覚が研ぎ澄まされ、より繊細な音のニュアンスを捉えられるようになったからかもしれません。

同時に、以前の私がいかに日本の「静けさ」に慣れ、それを当然のこととしていたかにも気づかされました。日本の生活音の控えめさや、言葉の持つ繊細な響きを、改めて愛おしいと感じるようになったのです。異文化の音に触れることで、自国の音の風景を新鮮な視点で見つめ直すことができました。

この体験は、単に音に対する許容度が上がったというだけではありません。五感全体で世界を受け止めることの大切さ、そして、慣れない環境の中でこそ、自分の感性が新たな刺激を受け、柔軟に変化していくことができるのだという発見がありました。私たちの心は、これまで閉じられていた「耳の扉」を開くことで、より豊かで奥行きのある世界を感じることができるのだと、今では思います。これからも、この耳で世界の音を聞き、感性をひらく旅を続けていきたいと願っています。